毒親

万事が表裏一体であるなら毒親育ちに救いがあるかもしれない?

表裏一体っていったいなんだ?

物事には『必ず』表と裏があるのであれば、毒親に育てられて人生を楽しめない私たちでも何かしらの救いがあるのではないでしょうか?

 

私たちは基本的に普通の人とは違います。

普通の親に愛情をもらって育った人たちが普通に人生を楽しんでいる時、私たちは悩み、苦しみながら生きています。

 

もし、毒親に育てられた私たちの人生観にも表と裏があるなら?

 

毒親に育てられると自分のことを好きになれないので常に自分以外を中心にして考えてしまいます。

 

例えばこんな事ありませんでした?

学級会や会社の会議で誰かが発言しないと解散できない状況になった時あなたは「自分が発言して終わるなら犠牲になろう」みたいなこと考えませんか?

行動力のある人なら実際に発言して不毛な時間の浪費を終わらせたことがあるかもしれませんね。

 

または、自分が遠慮することで丸く収まるならと身を引いたこともあるのではないでしょうか?

 

こういった行動や思考は自己犠牲と言ったら聞こえはいいですが、自分から面倒なことに飛び込んで自分の気持ちを抑えています。

 

普通の人たちがバカ騒ぎしていても、デートしていても、パフェ食ってるときでも、私たちは都合よく使われているのかもしれません。

 

でも、それって表裏一体で考えるとめっちゃ「いいひと」ってことだと思います。

 

信頼とか良い評判ってお金では買えないくらい貴重なものだし、喉から手が出るほど欲しい人もいます(特に政治家とか)

 

マイナス感情をコントロールできる能力

 

私たち毒親育は常日頃から攻撃を受けています。

家庭でも学校でも会社でも、何故だか平和に過ごすことができず、いつも誰かから攻撃を受けていませんか?

 

毒親に限らず、攻撃的な人は常にターゲットを探しています。

私たちはターゲットにされやすい空気を醸し出しています。

 

もしかしたら攻撃者も毒親育ちで、それでも私たちのように優しさに溢れた心を自分で持ったのではなく、攻撃性を高めることで自我を保とうとしている人かもしれません。

磁石でいえばマイナスとマイナスのようにお互いが自然に反発しているために攻撃対象にされていると考えるべきかもしれません。

マイナス感情をプラス感情で緩和する

ここで私たちがこの愚かなる攻撃者のマイナス思考にたいしてプラス思考で立ち向かえばどうなるでしょう?

 

マイナス同士だから反発していますが、プラスとマイナスであれば相手も攻撃対象としなくなるのではないでしょうか?

 

マイナス同士反発しあうからお互いが相手を脅威に感じ、恐怖心から攻撃対象にしている。

 

私たちも身構えてマイナス感情をぶつけているので相手の攻撃に恐怖を感じて反撃という攻撃をしてしまっているのでは?

 

もし私たちの感情を表裏一体をなすプラスに変えることができれば相手は恐怖心を持たなくなって自然と攻撃しなくなるのではないでしょうか?

 

実際問題、攻撃する人というのは恐怖心が強く、怒ることで恐怖心をなくそうとしています。

要はただの臆病者です。

 

そんな臆病者の表裏一体にあるのが勇者・賢者なわけですが、私たちが勇者・賢者になれば臆病者なんか怖がらなくてよくなります。

 

私たちは常日頃から毒親の理不尽な攻撃に耐えてきました。

攻撃に対して反撃をしてきたから不毛な口論が延々と続いてしまったのではないでしょうか?

自分自身を認めてほしいから子供を支配する毒親は認めてやるさみしいから子供を支配する毒親 毒親は自分自身の寂しさや欲求不満など、他人から認めてもらえないことを子供を支配することで満たそうとしま...

 

毒親の攻撃に立ち向かわず、逃げることに集中すれば何も生まない不毛な口論に巻き込まれずに済みます。

 

相手が愚かな臆病者ならば、私たちは勇敢な賢者になればいいと思いませんか?

 

怒りをブチまける愚かなる臆病者の表裏一体の存在である勇敢な賢者になることで、くだらない言いがかりをかわし、理不尽な扱いから逃げ出すことができれば私たちの勝利!

 

そうなるために私たちは本物の賢者にならねばなりません。

 

愚かな臆病者を認めてやる器量を持とうではありませんか!

 

奴らは弱い自分を強く見せたいのです。

強者であり賢者である我々は弱者である攻撃する者を暖かく広い心で受け入れてやればいいのです。

 

「そうですね」

「たいへんでしたね」

「だいじょうぶですよ」

 

と言った具合に。

 

私たち毒親育は自立心が強いです。

毒親に頼らなくても自分の力で生きて行けます。

 

ですが、攻撃を仕掛ける弱者は他者への依存度が異常に高く、攻撃相手がいないと自分の存在意義を見出すことができません。

 

私たち賢者は相手を攻撃しなくても自分の存在意義を自分自身で証明できるし、自分の人生を歩むことができます。

 

攻撃する弱者は攻撃対象がいなければ独り相撲をするしかなく、誰かと関わって依存していないと恐怖に押し潰されてしまいます。

 

結局これも表裏一体で、攻撃相手がいてこそ自分の存在を認められるので、独りになると途端に弱くなります。

 

会社や学校でいばり散らす輩は周りに自分の味方をはべらせて多数という防御を完璧にして攻撃してきます。

 

こういう輩が一人きりになると鎧がなくなりちっぽけな虚像だけが残ります。

 

「今日から俺は」とか「ろくでなしブルース」などの喧嘩と友情をテーマにした漫画なんかで表現されますが、敵対するグループの番長が恐怖で仲間をつなぎ止めているけど、何かのきっかけでその仲間が去っていくと途端に弱くなるみたいな。

 

会社のクソ上司とかクソ社員が攻撃してくるのは会社という巨大なバックを鎧としてまとっているから弱い立場の派遣やバイトを蹂躙できるのです。

 

クソ上司とかクソ社員が定年や転職で会社を辞めれば鎧はなくなるのでただの弱虫になります。

 

でも私たち毒親育は賢者になれば会社という鎧などなくても強者になれます。

 

毒親育ちというマイナス地点からの出発ではありますが、表裏一体で私たちは一般の人より強く賢く立ち振る舞う能力が培われています。

 

クッソ弱虫な攻撃野郎は私たちの表裏一体に位置する愚か者です。

 

私たちは賢者として賢く立ち振る舞いましょう。